こんにちは!ライターの塩谷舞(@ciotan)です。コルクでは、安野モヨコチームの一員としても働いています。
2016年9月1日から、パルコミュージアムにて安野モヨコさんの大規模個展「STRIP!」が開催されます。実はこちら、パルコミュージアムが渋谷から池袋に移転、そのオープニングを飾るこけら落としの展覧会なんです。
東京のファッションシーンと共に歩んできたパルコミュージアムが、その節目を飾る展覧会に選んだアーティストである安野モヨコさん。安野作品はこれまでにも様々なファッション誌でその魅力が取り上げられたり、ファッションデザイナーにインスパイアを与えることがありました。
ですが、海外では安野作品を「美術作品」としてとらえる側面があることを、ご存知でしょうか。
アメリカのハワイ州、ホノルル美術館での出来事。2015年2月に「現代ビジネス」にて掲載された、コルク・取締役副社長の寺田悠馬さん( @yumaterada )のコラムをお届けします。
(※記事は一部中略がございますので、全文は「現代ビジネス」にてご覧ください。)
キュレーターたちが綴るストーリーの一幕として
柔らかな島の風に包まれたホノルル美術館の中庭を、同館の日本美術キュレーター、スティーブン・サレル氏と散歩しながら、私はふと、体が軽くなるのを感じた。
昨年11月から始まったホノルル美術館の展覧会「Modern Love: 20th Century Japanese Erotic Art (モダンラブ: 20世紀日本のエロティックアート展)」に、 漫画家・安野モヨコの原画を展示できないかと、サレル氏から打診を受けたのが昨年の初旬。安野モヨコのエージェントとして喜ばしいことだが、それ以上に、学生時代に美術史の研究に没頭した私にとって、個人的にも、興味深い話だった。
小説家や漫画家のマネージメントを行うベンチャー企業「コルク」の共同経営を始めて以来、私は、漫画家の作品が、いわゆる現代アートとして、アート市場、そして美術史のなかで評価される流れをつくりたいと考えていた。漠然とした思惑だったが、幸いにもサレル氏と巡り会い、一年にわたって氏と対話するなかで、それは夢物語ではなくなっていった。
そしてついに訪れたホノルル美術館で、サレル氏と、共同キュレーターのショーン・アイクマン氏が手がけた展示を鑑賞していると、一種の安堵感に見舞われた。それは、東京から搬送した安野モヨコの作品が、良い意味で、「乱暴」に扱われていたからだ。
誤解のないように書き添えると、ホノルル美術館が、安野モヨコをはじめ展覧会に参加するすべての美術家に対して、深い敬意を抱いていることに疑いの余地はない。搬出準備の際には、美術品保護の専門家が一枚ずつ保管状態を検証し、最適な移送方法を丁寧に吟味してくれた。ギャラリーでの額装も、派手ではないが品がよく、なによりも、美術家たちへのキュレーターの思い入れが、会話の節々から伝わってくる。そのような相手でなければ、大切な作品を貸与できなかったのは言うまでもない。
ではなぜ、良い意味で扱いが「乱暴」なのかといえば、この展示の主役が安野モヨコではなく、ほかの美術家でもないことが、明確に見て取れたからだ。「モダンラブ」 という展示は、あくまでもキュレーターであるアイクマンとサレル両氏の「作品」で あり、そこで二人が物語るストーリーの一幕として、個々の美術家の作品が展示されている。そして、キュレーターたちが綴るこうしたストーリーこそが、やがては「美術史」を形成していくものにほかならないからだ。
美術史を構築する”乱暴”な批評眼
「モダンラブ: 20世紀日本のエロティックアート展」は、ホノルル美術館が2012年に始めた、日本の春画に関する展示三部作の最終章にあたる。17~18世紀の作品を 集めた「閨房の芸術: 日本の春画展」(2012年)、19世紀に焦点をあてた「笑い絵: 19世紀日本の春画展」(2013年)に続く「モダンラブ」(2014年)で、キュレー ター両氏が描いたストーリーを、私なりに読み解くとこうなる。
「文明開化政策の一端として、1872年に東京府が発行した違式詿違条例などにより、いわゆる春画の制作と売買は停滞した。しかし20世紀以降も、それまでは春画という形で表現されていた描写の多くは、姿形を変えて、日本美術のなかに脈々と生き続けている」
このテーマ(正確には私が解釈したテーマ)を物語る材料として、「モダンラブ」では、まずは橋口五葉の版画を、そして荒木経惟氏の写真を、さらには、安野モヨコの漫画原画を展示している。参加している美術家のうちこの3名だけをとっても、その作品が肩を並べて同じギャラリーに展示されるのは、日本ではまず考えられない。だがこの一見「乱暴」な編成こそが、キュレーターが独自の批評眼に基づいて、美術史 を構築している証である。
1922年に設立されたホノルル美術館は、とくにアジア美術の分野において、アメリカ有数のコレクションとして著名であり、例えば日本の浮世絵に関しては、全米3位の所蔵数を誇る。このような専門機関のキュレーター が、安野モヨコの作品について、アカデミックな議論を展開していることの重要性は計り知れない。
キュレーターや学者、そして批評家といった第三者に積極的に論じられることによって、作品はその対外的な価値の裏付けを得るからだ。批評家のリチャード・ヴァイ ン氏(「Art in America」誌シニア・エデ ィター)の言葉を借りれば、「批評家は(作品に)知的ブランドというものを与え、芸術的に立証することによってアートマーケットに多大な影響をあたえる」のだ。
そして現代アートは、アート市場で評価されることで初めて、美術史へと刻まれる。日本有数のアート・マネージメント・ディレクターとして、艾未未氏や磯崎新氏などのマネージメントを手がける辛美沙氏(Misa Shin Gallery代表)は、著書『アート・インダストリー』でこう書いている。
「美術史の文脈は自然に発生するものではない。作らなければならない。歴史化とはマーケットがあってはじめて成立するプロセスである。マーケットのないところに美術史など存在しない」
アート作品は、批評と市場という、時に「乱暴」な気流にまみれることで、歴史の一部となるのだ。
日本のアート界全体が直面している問題
漫画を美術史に組み込む試みは、ホノルルのような海外だけでなく、日本でも行えないだろうか? 「モダンラブ」の展示を訪れて以来、そう考えている。
漫画原画をギャラリーで一般公開する、いわゆる原画展の類いは、国内でも頻繁に行われており、コルクも様々な展示に協力してきた。こうしたイベントは、来場者が作品の世界観に触れる素晴らしい機会だが、一方で、それが展示作品の、美術史やアート市場における評価に繋がることはほとんどない。
それはこの種のイベントが、展示作品とその作家にとって、あまりにも安全な場所だからではないだろうか?
つまり、原画展は主にファンの方を対象として企画され、来場者の大半は、すでにその作品を好きな人々が占める。そこには、独立的な視点から作品を論ずる批評家の声も響かなければ、作品の適正価値を見極めようとする買い手の眼も光らない。こうした第三者の「乱暴」な介在なしで行われる展示会は、主に内輪の祭事として、楽しくも、しかし外の世界からは孤立した、一過性のものとして終わってしまうのだ。
これはしかし、決して漫画特有の事情ではなく、日本のアート界全体が直面している問題のようである。
前述の辛氏は、「日本がバブル期におかした最大の失敗は、無謀なアートへの投資ではなく、アートマーケットのインフラを整備しなかったこと」だと書く。(中略)
バブル期の日本には約1兆円のアート市場が存在したと言われる。だがそれだけの資本のほんの一部が、インフラの構築、つまり、アートを取り巻く専門職の創出に再投資されることはなかった。それは例えるならば、1兆円の株式売買を行いながら、証券取引所を設立せず、また証券会社で人を雇用しなかったようなものだろう。
その結果、アート関連の仕事で生計を立てているプロフェッショナルの数が、日本はほかの先進国に比べて、圧倒的に少ない。日本には優れたアーティストはたくさんいるが、「アート産業」というものが、実質的に存在しないのだ。
孤立していた作品に文脈を与える行為
(中略)現代美術家であり、京都造形芸術大学で教鞭を執るやなぎみわ氏は、アートを単に鑑賞するのではなく、言葉で表現する重要性について、インタビューで答えている。
「(作品を見せて)初めから『感じてください』なんて言えないですよ。日本の美術教育は、いまだに言葉を蔑ろにしすぎです。技術を軸足に据えて、あとは言葉にする ことを放棄した茫洋とした世界にとどまっている。(中略)私は学生にしつこいくらい言っています。『言葉で考えろ』って。言葉にすることを放棄して感性のなかにたたずんでいても、何も変わらないですよ」(「瓜生通信62号 特集:やなぎみわの翼」より)
ホノルル美術館に目を向けると、「モダンラブ」で展示された作品の説明には、キュ レーターたちの言葉がぎっしりと並んでいる。例えば、安野モヨコの漫画『さくらん』の原画Aの説明文は、このように始まる。
「右上から左下へと読み進められる本作の構図からは、安野の、シネマトグラフィー に対する秀逸な感性が見て取れる。まずは誰もいない廊下に、子供たちが言い争いをする声だけが聞こえる。次に幼い禿がその姿を現し、読者の視点が徐々にページの下 部に誘導されると、禿の怯えた目線から、そびえ立つ主人公・きよ葉の姿が浮かび上 がってくるのだ」(筆者訳)
じつはこれは、学問としての美術史において 「フォーマル・アナリシス(形式分析)」と 呼ばれるテクニックであり、筆者(この場合 はキュレーター)が、自分が見たものを、まずは正確に言葉で表現するという基本技術である。作品が目の前にあるにもかかわらず、あえてそれを言語化するのは、自分が注目しているポイントを明確にすることで、それから展開する批評の地ならしをする趣旨がある。つまり、丁寧なフォーマル・アナリシスがあって初めて、例えば、春画と『さくらん』の歴史的関係についての検証が可能になるのだ。
近年の国内の例では、現代美術家の山口晃氏が、著書『ヘンな日本美術史』でアートの言 語化を行っている。氏は本の内容について、「私が得手勝手に先達の絵を見立てているのを、余談も含めて記しただけ」と述べている。だが、誰もが一度は見たことのある日本美術の名作を、山口氏の研ぎ澄まされた 言葉で解説されると、それまで気づくことのできなかった作品の魅力が、くっきりと浮かび上がってくるのだ。
作品と向き合った時に、「なんとなく美しい」、「なんとなく面白い」という以上の感想を自らの言葉で述べることは、じつは容易ではない。とくにアートの世界では、その「なんとなく」を、感受性の名のもとに、良しとしてしまうきらいがある。
だがそこで、一見「乱暴」でも、アートをあえて言葉に落とし込むことによって、批評が生まれ、そしてその先にあるアート市場と美術史とが構築される。それはつまり、孤立していた作品(コンテント)に、文脈(コンテキスト)を与える行為と言えるだろう。
コンテントと、それを取り巻くコンテキストとは、つねに切っても切り離せない関係にある。そもそもコンテントがなければ何も始まらないが、一方でコンテキストがな ければ、作品は社会との関連性を失い、重要性が損なわれてしまうからだ。
安野モヨコの作品は、今回ホノルル美術館に展示されることによって、漫画とはまた一つ違う、現代アートという文脈を得るきっかけを掴むことができた。国内外を問わず、作品に新しい輝きをもたらす「コンテキスト作り」は、まだ始まったばかりである。
(現代ビジネス 寺田悠馬「クリエイティブの値段」より転載)
参考文献)
・「瓜生通信62号 特集:やなぎみわの翼」
・『アート・インダストリー 究極のコモディティーを求めて』(辛美沙著/美学出版)
・『ヘンな日本美術史』(山口晃著/祥伝社)
本文執筆者・寺田悠馬 (てらだ・ゆうま)
株式会社コルク取締役副社長。ゴールドマン・サックス証券株式会社、大手ヘッジファンドを経て現職。コロンビア大学卒。著書に『東京ユートピア 日本人の孤独な楽園』(2012年)がある。Twitter: @yumaterada
以上、現代ビジネスからの転載記事をお届けしました。ここから、あらためて塩谷が補足いたします。
その後、安野モヨコさんのこちらの2作品が、ホノルル美術館に所蔵されることが決定。それは、美術史の中の1つのピースとして、以後長らく語られるであろうことを意味します。
9月パルコミュージアムでの大規模個展。そこに並ぶ1996年から2016年までの安野作品を通して考える。もしくは、他ジャンルの美術作品とあわせて考察する。そうすることで「コンテキストを発見する」というのも、1つの楽しみ方になるかもしれません。
安野モヨコ展「STRIP!」
■会期
2016年9月1日(木)〜9月26日(月) 会期中無休
■会場
パルコミュージアム (池袋パルコ 本館 7F)
10:00~21:00
※最終日は18:00閉場。入場は閉場の30分前まで。
■入場料
一般500円・学生400円 (税込)小学生以下無料
会場にて、画集「安野モヨコ STRIP! PORTFOLIO1996-2016」を先行販売!(2500円[税込])
展覧会の詳細はこちらから